生身天満宮の歴史

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総勢500余人に及ぶ行列 生身天満宮祭札絵巻

生祠として祭祀した最古の天満宮

生身天満宮は菅原道真公が左遷を命ぜられた延喜元年(901年)に、武部源蔵自らが菅原道真公の御木像を刻み、生祠(いきほこら)を建てて奉齋したのを創祀としています。

延喜3年(903年)2月25日空しく無念にも菅原道真公が大宰府で薨じられたため、この生祠を霊廟と改め、途絶えることなく日々神忌に務めていました。

菅原道真公の没後は、都で次々と凶変が相次ぎ治まる気配が全くありませんでした。菅原道真公のたたりと恐れた人々は、何とかお鎮めしようと天暦元年(947年)京都北野の右近の馬場に菅原道真公の尊霊を鎮祭します。諸国にも、菅原道真公と由緒ある場所には社を創立して祭祀崇敬すべき旨の勅諚が発せられます。そこで、慶能君(この時には、竹内筑前守茂時と称しました。)及び恩顧の人々は里人らと図り、かねての霊廟を神社と改め祭祀を務めます。神殿が竣工して正遷宮の式を齋行した時には、すでに天暦9年(955年)になっていました。日は9月7日であったので、この日を生身天満宮の例祭日と定めました。時を経て、現在は10月第3日曜日に例祭(秋祭り)を齋行しています。

後花園天皇の長禄年間(1457〜1459年)に足利八代将軍義政の命により、時の管領細川武蔵守が、本社以下諸末社に至るまで再建を行い、多くの社領も寄進しました。後も室町及び戦国時代にあっても、生身天満宮は手厚く守護されています。

その後天下が治まり、世は徳川時代となって、元和5年(1619年)小出吉親公が但馬の出石より封を園部に移され、小麦山に築城することとなりました。そのため、小麦山に祀られていた生身天満宮は、承応2年(1653年)、現在地の天神山に遷座されました。小出家もまた、生身天満宮を小出藩の祈願所と仰いで崇敬し社領をはじめ数多くの神器・神宝を寄進しています。園部城向かい側に位置する天神山に遷座されたのも、見下ろすことなく日々仰ぎ尊崇するためであったと考えられています。

寛延3年(1750年)小出英智公の特命により藩費による神幸行列を定め、後も百十余年間を越えて行われ、崇敬されること長期に及びました。

生身天満宮跡(小麦山 園部公園)
生身天満宮跡(小麦山 園部公園)

明治6年(1873年)6月郷社に列し、大正8年(1919年)12月8日府社に昇格しますが、昭和21年(1946年)新憲法制定に伴い社格が廃され、国家の管理から離れました。

延喜元年(901年)生祠を奉齋してから、菅原道真公由縁の25年ごとに式年大祭を齋行してきました。平成14年(2002年)には44回を数え、菅原道真公1100年記念大祭を齋行しました。次回は令和9年(2027年)に1125年記念大祭を控えています。

生身天満宮は、数多くの杉の古木や梅の木に囲まれた静かな佇まいの中、奉斎の始祖武部源蔵の忠誠の魂と共に、学問の神として、その神威悠久に凛として輝いています。