菅原道真公と和歌

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園部城跡から天神山を望む

園部城跡から天神山を望む

生身天満宮が鎮座する園部の地は、菅原家代々の御知行所であったため、同地小麦山に別邸があり、菅原道真公もしばしば来遊されていました。寛平8年(896年)、秋のある日の朝、邸殿より私市(現小山西町)のあたり一面霧深く立ちこめているのをご覧になり、

谷の間の 霧はさながら海に似て 浪かとまがふ 松風の音

谷の間の 霧はさながら海に似て 浪かとまがふ 松風の音

と詠じられ、ここに仕える家臣武部左衛門尉治定(後に武部源蔵と改めました)に下されたと記録に残っています。
この武部源蔵が、生身天満宮の始祖である人物です。

菅原道真公は平安時代前期、寛平・昌泰・延喜の宇多天皇・醍醐天皇に仕えて忠誠に励まれ、従二位右大臣まで昇進されました。しかし、その勢威をねたんだ藤原時平らの讒奏(ざんそう)にあって、突如大宰権帥に任命され事実上左遷されることとなります。延喜元年(901年)2月、これを聞いた武部源蔵は、菅原道真公左遷の道を追い、都の東寺で拝謁を果たします。その時、菅原道真公より、大切にされていた松風の御硯に添えて

菅原の すりおく墨のいつまでも 硯の水の つきぬかぎりは

菅原の すりおく墨のいつまでも 硯の水の つきぬかぎりは

の御歌を賜わりました。同時に、菅原道真公御子八男 慶能君養育の内命を受け、園部の地へ連れ帰ったのです。その時から生身天満宮創建の歴史が始まります。

丹波地方には、菅原道真公や武部源蔵に関する伝説が、いくつか残っています。武部源蔵が現在の南丹市京北町芦生に隠棲したとの説もあります。現在ここには勢竜天満宮の祠が建ち、「菅原の すりおく墨のいつまでも 硯の水の つきぬかぎりは」の歌碑も立っています。菅原道真公が篤く信仰される歴史の中で史跡が生み出されていったのでしょう。

京北町芦生に建つ歌碑
京北町芦生に建つ歌碑