菅原道真公とご神徳

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生身天満宮ご祭神贈太政大臣正一位 菅原朝臣道真公(菅原道真公)ご神徳合格祈願・学業成就・就職出世・雷除け・火災除け・健康長寿・病気回復・交通安全

生身天満宮ご祭神贈太政大臣正一位 菅原朝臣道真公(菅原道真公)ご神徳合格祈願・学業成就・就職出世・雷除け・火災除け・健康長寿・病気回復・交通安全

ご祭神 菅原道真公

菅原道真公 土佐光元作「束帯天神図」生身天満宮蔵
菅原道真公
土佐光元作「束帯天神図」生身天満宮蔵

生身天満宮のご祭神は平安時代前期に学者・政治家として活躍した菅原道真公です。家系は代々学問にすぐれ父是善は参議に叙されていました。その血を受継いだ菅原道真公は承和12年(845年)に生誕されます。5歳の時に和歌、11歳の時には漢詩を詠み幼い頃から天才ぶりを発揮しています。

常に真摯に「和魂漢才」の精神で猛勉を重ね精進し、当時最年少の18歳で文章生の試験に、7年後には方略試という最高至難の国家試験に見事に合格しています。その後、異例の速さで昇進し、右大臣に任命され従二位を授けられるに至ります。この時同時に従二位に昇進したのが藤原時平です。

学者出身であった菅原道真公の急速な栄達へのねたみや不満は、時平を始め有力者たちの間に広がっていきました。菅原道真公が宇多法王から全幅の信頼を受けていたことも、醍醐天皇や時平らに脅威的危機感を抱かせたのでしょう。時平の讒言により突然に大宰府へ左遷されることとなり、延喜3年(903年)悲運にもその地で59歳の生涯を閉じられます。

没後、京の都では、落雷・災厄の凶変が相次ぎ、わずか6年後に藤原時平も死去します。延長8年(930年)の「清涼殿の落雷事変」では藤原一族5人が死傷、醍醐天皇も病気となり崩御なさいます。人々には、すべて菅原道真公の怨霊のなすところとして恐れられます。何とか鎮めたいと願った朝廷は、正暦4年(993年)に生前より高い太政大臣正一位を贈っています。

やがて菅原道真公は神格化され、「天神信仰」とも呼ばれる菅原道真公への篤い信仰は、千年を越える歴史と共に変遷しながら、日本各地に展開し形成されていきました。今なお、多大なご神徳と共に脈々と継承されています。

菅原道真公と生身天満宮

現在は特に「学問の神」として崇められています。京都園部町に鎮座する生身天満宮は、菅原道真公を祀る日本最古の天満宮として、「合格祈願・学業成就」の高いご神徳があり、その歴史を持って崇敬を集め、参詣が絶えません。さらに、菅原道真公が類稀なる昇進を重ねられたことから、 「就職や出世」を叶えて下さる 「仕事の神」としても崇拝されています。

また「火雷天神」として人々の信仰も篤く、雷や雷に象徴される災いごとを避けて下さる神としても崇敬されています。生身天満宮では、毎年5月1日の春祭りに、神職手作りの「雷除けお札(御神札)」の授与を行っています。雷による被害を避け、日々を安全に過したいと願う多くの信奉者が参拝して授与を受け、境内は賑わいます。

合格祈願・学業成就の参拝が絶えない
合格祈願・学業成就の参拝が絶えない

秋祭りには、境内に火の神を祀る秋葉愛宕神社が鎮座する由縁から、「火災除けお札(御神札)」の授与を行います。火を使うことが増える冬を間近に控え授与されるお札は、本宮菅原道真公のご神徳と融合し、火伏せのおおいなご加護があります。

その他に、菅原道真公が左遷された間、無事の生還を願い続けた発祥の由縁から、「健康長寿・病気回復の神」。寛平6年(894年)遣唐大使となられた菅原道真公の建議により遣唐使派遣が停止された史実から、「交通安全の神」。また、弘法太子や小野道風と並んで“天下の三筆”と称される書道の神。柿本人麻呂・山部赤人と共に“和歌三神”と仰がれる和歌の神。かつ詩文・連歌・芸能の神としても広く知られています。雪冤ー無実の罪を晴らして下さる神、正直の神、国家鎮護の神など、そのご神徳には際限が無く、広く篤い信仰を受けています。

また、鎮座地園部町の総氏神として、「てんじんさん」の愛称で親しまれ、地元氏子から敬愛されています。