田中弘太郎陸軍大将誕生の石碑

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田中好太郎陸軍大将誕生の石碑・
自宅・田中好太郎の写真

田中弘太郎

生身天満宮境内にある府社天満宮碑のそばに、高さ185cm幅37cmの記念碑が立っている。
碑の正面には・陸軍大将田中弘太郎誕生の地
右側面には・・陸軍大将鈴木隆雄書
裏面には・・・皇紀2600年記念 帝国在郷軍人会園部町分会建之
と刻まれている。
田中弘太郎氏の生家はこの地にあり、少年時代、その屋敷より「あかずの井戸」まで、水を汲みに通ったと伝えられている。

田中弘太郎は、慶応2年(1864)9月29日、京都府園部村天神町宮ノ下(現・生身天満宮境内)で旧園部藩士の後継ぎとして生まれた。
幼少の時から厳しく躾られ「自分でできることは自分でやれ」というのが両親の躾の基本だったと云う。父は、田中弘作(道一)園部藩御徒目付配下の御産所廻り小役人で、高五石五斗・二人扶持。母は、みき子(美佐子)船井郡竹野村水戸の医師・世木沢去伯の長女である。
8才になれば奉公や丁稚に出るのが普通だった明治9年(1876)満11才で小学校を卒業した。家事を手伝いながら勉強を続けていると、園部小学校(明新堂)の助教員への申入れがあり、それを受けて助教員となった。 こうして、開明的な校長として名高い上野盤山や井上堰水等の教員仲間となった。
その後、園部町役場の書記を務める傍ら、上野盤山の私塾「惜陰社」に入り盤山の教えを受けた。
この様な思春期時代の生活は、弘太郎を思慮深く教養の高い人物に仕上げていった。

田中弘太郎年表

明治16年(1883)7月

新しい進路を求め東京に向い、父の同僚陸軍将校・藤田克三郎宅に止宿して中学4年終了生と対等に陸士競争試験に臨んだ。 明治17年(1884)7月、めでたく陸軍士官学校へ入学し、歩兵生徒隊に属した。2年に進級すると騎兵生徒隊に移り、更に3年目には特殊生徒隊の砲兵科に鞍替えした。

明治20年(1887)7月

陸士在学中に陸軍砲兵少尉に任官した。翌、明治21年(1888)7月21日、陸軍士官学校を卒業、大阪第4聨隊砲兵小隊長に任官。恩賜金時計拝受す。

明治21年(1888)12月

陸軍砲兵射的学校入学

明治23年(1890)6月

陸軍砲工学校開設。同年11月26日砲兵中尉・教官心得。この間、砲熕学の基本理論である「射撃の原理」を著し、陸軍部内で一躍有名人になった。

明治26年(1893)7月29日

砲兵大尉(29歳)

明治27年(1894)6月

広島第5師団に転ず。この年8月1日、日本は清国に宣戦(日清戦争)

明治27年(1894)8月16日

宇品港出港、釜山上陸に参戦

明治27年(1894)11月21日

旅順要塞陥落

明治28年(1895)8月10日

陸軍砲工学校教官を任ず。(5年間)

明治28年(1895)8月22日

大連出航、宇品に帰国。正七位勲六等瑞宝章、功五等金鶏勲章叙す

明治30年(1897)

砲兵少佐・田中タツ生まれる。

明治33年(1900)10月

東京砲兵士厰厰員となり造兵技術を製造現場で体得する。

明治34年(1901)10月

砲兵中佐、陸軍兵器部検査官、欧州(ドイツ)に出張。欧州駐在中は、陸軍兵器買付に関し、契約期限の厳守と厳格な品質検査に徹した。

明治39年(1906)2月

欧州より帰国後、小倉砲兵工厰にて大砲の改良に腐心。4月1日、勲四等旭日章、功五等金鶏勲章を受領。

明治40年(1907)11月

砲兵大佐に任ず。

明治44年(1911)5月4日

大阪砲兵工厰に於いて、軍用自動車試運転。

明治44年(1911)8月

大阪砲兵工厰、技術課長拝命。

大正2年(1913)8月

陸軍技術審査部審査官、第3科長

大正2年(1913)8月22日

陸軍少将に栄進。

大正3年(1914)8月23日

ドイツに宣戦。第一次世界大戦となる。

大正3年(1914)9月

青島攻略戦に出動。

大正3年(1914)11月7日

青島占領後、帰国する。

大正4年(1915)11月7日

勲二等瑞宝章を授く。

大正4年(1915)11月10日

大正天皇即位式に陸軍勅任官代表として之に参列する。

大正7年(1918)1月17日

母みさ子 東京において死去。

大正7年(1918)7月24日

陸軍中将となる。
自ら望まず、部下が押し上げ、上長が引きあげるという実力の賜であった。

大正8年(1919)4月15日

陸軍科学研究所々長就任。

大正11年(1922)8月15日

陸軍技術の最高位である陸軍技術本部長に就任する。

大正12年(1923)9月1日

関東大震災起り、2日戒厳令が発される。
この震災で陸軍技術本部舎は全壊し、田中は寝食を惜しんで復旧にあたり、半年後には仮庁舎を完成させた。

大正13年(1924)8月20日

陸軍技術陣の最高峰から、軍人の最高位である陸軍大将を拝命。従三位勲一等功四級。予備役に編入。

大正14年(1925)4月

官を退き、帰郷の日を誰にも通知せず一人、園部に帰郷隠棲する。
田中大将は、「崇高な人格者」「盾実剛健の気風、厚い信仰心、研究心」「孝行、愛国、謙譲、博愛の人」などと評される。いかにも堅固なイメージだが、等 当時は、それが尊敬される人であった。「軍人となれば、自分の体は御国に捧げられたもの」という父の言葉から生涯独身で過ごした。

昭和3年(1928)11月10日

今上天皇の即位式に参列。

昭和9年(1934)2月20日

田中幾次郎(次弟)の二女、田中タツ(37歳)を養女となし、家督を相続する。このとき、弘太郎は70歳となり、心身の衰えを自覚していたが、当時、出征兵士の見送りに園部駅までの行進に参加している。

昭和13年(1938)5月22日

夜、田中大将は病床に臥し、同年6月5日午後8時15分自宅で永眠した。
享年73歳8ヶ月であった。法号「弘誓院香山晴雲居士」南陽寺

田中弘太郎氏は、明治から昭和20年に至る戦乱の時代の中、「富国強兵」の国策の中心であり、青年の志向は「立身出世」であった。若音を駆りたてる夢は大臣であり大将だった。
軍国主義昂揚の時勢だったにもかかわらず、勅使や儀仗隊の差遺も断り、葬儀式は、営まれていない。氏は孤高の人であり、高踏的な人生を全うした人。金、地位、名誉に対して恬淡で、妻子が無く、後嗣を育てず、葬儀式さえ拒んでの功を求めず、名を欲せずの謙虚にして、慈悲に富んだ聖将であった。
ちなみに、陸軍大将は、全国で134名である。最初の大将は、西郷隆盛で田中弘太郎氏は65人目であった。後の東條英機は113人目と云われている。
田中大将の亡後間もなく陸軍省は、田中弘太郎の軍事関係書蔵書一切の贈与を受けこれを東京に移した。 別に多数の一般図書があったが、養女の田中タツはこれ等一切の図書を園部図書館に寄贈した。田中タツ女は昭和57年(1982)11月20日園部の「長生園」にて死去。(享年85歳)

(参考資料)
・船井郡人物史
・丹波及丹波人(丹波青年社版)
・丹波人物志
・図説 園部の歴史

令和2年12月記 上野榮二(丹波史談会会長・生身天満宮氏子会会長)